何事も無かったように、たっぷりと夜は更けていた。
「うにゅ、スッキリしたです」
二階の肘掛欄干から身を乗り出したプルミエールが一言。 湯浴みの後らしく、薄絹一枚を幼い肢体に巻き付けたあられもない姿である。 布越しに垣間見える少女の幼い肌は薄桃色に紅潮していた。
「それはようございました。 ところで、本当にアレで宜しかったのですか?」
階下の工房内では、ポウ技師が水上艇の整備点検に取り掛かっていた。 前大会から三年もの間、納屋の奥で眠っていた艇体は、所々塗装が剥げ落ちて、赤茶けた強化材の下地が覗いている。
「なんのことですか?」
「レムリアさんのことですよ。 見たところ、とても嫌がっていたように思えましたので……」
「うにゅ、レムレムの死はムダにはしません」
プルミエールのなかでは、既に故人と化しているようだ。 レムリアを売り渡して、身の保全を確約した負い目など、まるで感じていない。
「そ、そうですか」
ポウ技師が口篭る。 主従の間に過分に立ち入るべきかどうか迷っているようだ。 百歩譲って良心的に解釈すれば、それだけ妹姫であるユイリーンを信頼しているのかもしれない。
「そんなことより、“すぺしゃるデンジャラス号”はだいじょぶですか?」
しかし、当のプルミエールは周囲の葛藤など何処吹く風、過ぎてしまったことは気にしない性格だ。 亡き者にされたレムリアが知ったら化けて出そうである。 無論、生霊としてだ。
「はい、劣化した樹脂やゴム製部品の交換は必要ですが、船体の錆を落として再塗装すれば、走行には問題ない筈です。 ときにプルミエールさまは、三年前、初めてこの工房を訪れた時のことを覚えていらっしゃいますか?」
ポウ技師も深く考えることは止めたようで、昔を懐かしむように微笑んだ。
「うにゅ、リナリナといっしょでした」
「わたしはプルミエールさまのお姿を拝見して、一目で確信しました。 因果は巡り、再び贖罪の機会が与えられたのだと……」
ポウ技師はプルミエールの双眼に宿る特異な色相を見上げ、魅入られたように呟く。
「むむ、ラヴラヴは美味しいのですか?」
プルミエールが真顔で尋ね返す。 “贖罪”と“食材”―――大方、脳内辞書に存在しない単語を安易に取違えたのだろう。 口を開くと高確率で話の腰が粉砕骨折するので、対話相手はたまったものではない。
「え、え~と……、食される前に、ちょっとした昔話にお付き合い願えますか?」
ポウ技師は困ったように、大きな肉球で頬を掻いていたが、改めて意を決すると作業の手を止めて、プルミエールの元へ歩み寄る。
「うにゅ、くるしゅーない」
プルミエールは寝椅子に腰を落として偉そうに促した。
「これは天地創造と原初のお話です」
少女の了承を得たポウ技師が、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「神様は生命の源たる世界樹が実らせた四つの実を地上に撒きました。 そして、その実から誕生した四体の聖獣に知恵と不滅の魂を授け、この世界の統治を任せたのです」
天窓から差し込む月明かりが、ポウ技師に優しく降り注いでいた。
「まず最初に聖獣たちは、己の血肉から獣人と呼ばれる眷族を生み出しました」
「“せいじゅう”に“じゅうじん”?」
聞きなれ無い単語にプルミエールが鸚鵡返しに尋ね返す。
「はい、豊穣と多産を司る“緑眼の聖母メナディエル”は【有角族】、常闇に生き、冥府の支配者たる“死せざる王グラトリエル”は【屍鬼族】、カラクリと称される機械技術を大成した“森の賢者ノルド”は【巨人族】、精霊と交感し、それらを使役した“無銘の小さき女王”は【妖精族】、四大聖獣は同眷属の王として、地上に至高の楽園を築き上げたのです。 ちなみに、“獣人”とは聖獣から生まれたヒト型に綽名された総称であり、必ずしも半獣の姿を指しているわけではありません」
ポウ技師は漆黒の双眼を閉じると、間断なく物語を綴る。 傍らのプルミエールは頭を左右に傾けて疑問符を浮かべているが、少女に理解させるより言葉として伝えることを重要視しているようだ。
「悠久なる時が流れ、森を捨て地上の実質的な支配者となっていた“巨人の王ノルド”は神の御許に還ることを切望するようになります」
「里ごころがついたのですね」
プルミエールが身も蓋もない感想を洩らした。 言葉を飾り立てしないのは、この少女の美点でもあり欠点でもある。
「ふふ……、聖獣とは元々神界の生物ですから、その通りかもしれません。 そして、“巨人の王”は他の三聖獣に協力を求めました。 “死せざる王”と“小さき女王”、二体の聖獣は巨人たちに破壊と再生のチカラを与えて、天への道を拓く手助けをしました。 しかし、“緑眼の聖母”だけはその誘いに応じませんでした」
「プルもだんたいこーどーはニガテです」
話の内容を理解しているとは思えないが、“緑眼の聖母”に妙な親近感を抱いているようだ。
「“緑眼の聖母”は生命の恵みを司っていましたから、望郷心よりも新たな命が宿る地上への愛着が強かったのかもしれません。 しかし、従属する有角族からは不満の声があがりました。 恐らく、有角族だけが地上に取り残されることを危惧したのでしょう。 配下の眷属は、創造主である聖獣の意志には逆らえませんから当然ですね」
「じゅーぞく?」
プルミエールが再び話の腰を折るが、ポウ技師はやさしく微笑むと、
「多少意味合いは異なりますが、王族であるプルミエールさまからみれば、家臣やアダマストルの国民を指す言葉です」
「むー、アリアリやレムレムがプルに不満を言うのですか?」
プルミエールが唸りながらポウ技師に尋ねる。
「まぁ、そのようなものです」
「帰ったらオシオキですね!」
プルミエールの脳内で無関係のアリエッタとレムリアのお仕置きが理不尽に決定事項となっていた。 片や船に置き去り、片や保身の為に身売りされているので散々である。
「ゴホン、勿論、“緑眼の聖母”にも考えがあってのことだったのでしょう。 他の聖獣から見れば裏切り者でしょうが、後々の結果から鑑みれば、“彼女”の行動は間違っていなかったとも言えます」
ポウ技師は明後日の方向に走りだしそうな話を、咳払いと共に本筋に戻す。
「もっとも、それが因で“緑眼の聖母”は、我が子にも等しい有角族の手によって首を落とされてしまいました」
「やっぱり、オシオキはやめます」
一方、プルミエールも独裁者の成れの果てを知って、少しだけ反省したようだ。
「それは、民草の声に耳を傾けなかった報いだったのかもしれません。 しかし、誤算は弑逆者側にも生じました、“緑眼の聖母”が物質的に滅びたことにより、有角族たちは“獣”としての特性の全てを失ってしまったのです」
ポウ技師はそこで言葉を区切ると、プルミエールの顔を正面から見つめる。
「“じゅーじん”じゃなくなったのですか?」
「ええ、その時、この地上に“ヒト”と呼ばれる存在が生まれたのです。 でも、それは有角族にとっては幸運だったのかもしれません。 天を目指す聖獣たちの試みは、神様の怒りを買い、それに加担した巨人族は“ヒト”としての姿を奪われ、一介の“ケモノ”に成り下がりました。 生き残った三体の聖獣も、魂を奪われ、この世界の何処かに呪縛されています。 そして、聖獣の加護を失った屍鬼族と妖精族は、次第にその個体数を減らし、種の滅亡を迎えつつある。 その全てが、賢者などと褒め称えられ、増長した愚か者が招いた因果……」
深い余韻を残して、ポウ技師は口を閉ざす。 まるで己が過去を悔いるように俯いていた。
「むぅー、ココロがせまい神サマですね」
何かを感じ取ったのか、プルミエールが憤慨する。 ポウ技師の語った内容は、それが真実であれば、人族と古種族との関係を解き明かす途方も無い話であるのだが、そちらの重要性に気づいていないようだ。
「ウフフ……、お優しいのですね。 流石はミュミュに主人として認められただけのことはあります」
「えっへん。 でも、ムズカシくてよくわかりませんでした」
お馬鹿だが、同時に嘘がつけない素直な性格である。
「今はわからなくても大丈夫です。 ただ、天地戦争以降にこの地に根付いた新種の獣達は全て、“森の賢者ノルド”の眷属であった巨人族の末裔だということだけは覚えておいてください」
ポウ技師の目的は史実を正確に伝えることではなく、プルミエールに世界の理を知ってもらうことにあるようだ。
「それじゃあ、ミュミュもですか?」
プルミエールが床上に転がっていたミュミュを両手で抱えあげる。
「この子には少し特殊な理由がありますが、似たようなものですね」
ポウ技師がミュミュの頭を撫でる。
「ちっちゃいけど、ほんとうはでっかいのですね♪」
プルミエールもミュミュが巨人族の成れの果てだと理解したのだろう。 満足したように何度も頷いていた。
「今の人族は間違った伝承に縛られ、本来の姿を見失っています。 ですが、わたしは信じています。 今度こそ、闇に堕ちた“緑眼の聖母”は救われると。 そして、世界を覆う霧を晴らすことができると。 その時が来たならば、どのような助力も惜しむつもりはありません」
ポウ技師はプルミエールを腕のなかに掻き抱く。 その抱擁は優しく、それでいて力強いものであった。
「うにゅ、ど~んとプルにまかせるです!」
何は無くとも、根拠のない自信だけは持ち合わせるプルミエールであった。
|